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2026年06月14日

自己主権はなぜ「標準」にならないのか──技術ではなく、人・経済・信頼の壁

自己主権はなぜ「標準」にならないのか──技術ではなく、人・経済・信頼の壁

出発点:技術は「成立」しているのに、なぜ止まるのか

大阪大学の研究では、一般利用者・医療従事者・研究者の延べ48名による実証で、有用性・受容性ともに高評価(一般利用者の肯定率90%以上)を得た。一方で残った課題は、読み込み速度のほか「緊急時手順」「運用ルールの整備」——つまり技術ではなく制度・運用の側だった。この構図は示唆的だ。自己主権型の取り組みは、機能実証では成功するのに、社会浸透の段階で止まる。原因を技術に求める限り、答えは見つからない。

① ユーザーは「守りたい」と言うが、動かない

最大の壁は需要側にある。人は「プライバシーは大切」と答えるが、行動は伴わない。いわゆるプライバシーパラドックスだ。調査では約9割が privacy を懸念すると答える一方、保護技術の利用率は一貫して低い。さらに個人データの主観的価値は驚くほど低く、ある実験では閲覧履歴をわずか7ユーロ(約1,000円強)、属性情報でも約25ユーロ程度でしか評価せず、「プライバシーには金を払わない(1ユーロ安いだけで個人情報を差し出す)」傾向が繰り返し確認されている。自己主権は、鍵やアクセス権の自己管理という手間と自己責任を求める。だが見返りとして提示される「データ主権」を、当の本人がそこまで重く評価していない。利便性が常に勝つ。大阪大学の90%という肯定率も、回答上の「表明選好」であり、実際に手間とリスクを負うかという「顕示選好」とは別物である。この溝こそが普及の断層だ。

② 中抜きを壊す価値は、資金の出し手を消してしまう

第二は経済構造の問題だ。現在のデータ経済は、データを中央に集約して収益化する仕組み(広告、本人確認ビジネス等)で回っている。SSI・自己主権は、この仲介者(政府・銀行・テック企業)を排除することに価値の本質がある。だが裏を返せば、普及を担えるだけの資金と流通網を持つ既存プレイヤーから、まさに収益源を奪う構造だ。中抜きを壊す提案は、本来その普及を後押しできるはずの主体を不在にする。「導入しても誰が儲かるのか」が描けず、ユーザー需要も弱いため、事業者が大規模展開を押し進める動機が生まれない。

③ 鶏と卵──二面市場のコールドスタート

第三はエコシステムの起動問題だ。自己主権型IDは典型的なコールドスタート問題を抱える。利用者は、受け入れてくれる検証者(サービス側)がいなければ証明書を取得しない。検証者は、十分な利用者がいなければ導入しない。証明書の発行体(政府・大学・病院)が起点になり得るが、彼らもまた「自己主権を採れば自分の中央集権的な支配が弱まる」という利害の不一致を抱える。加えてGoogle/Appleログインや国のeIDといった「十分使える」既存解が、はるかに低い摩擦で同じ用途を満たしてしまう。規格の乱立(DID方式は130種類以上)も相互運用を阻み、ネットワーク効果が立ち上がらない。

④ 自己責任という重荷と、制度的信頼の壁

第四は信頼の所在だ。人々が信頼するのは暗号や自己管理ではなく、銀行・病院・行政といった「制度」である。これらにはパスワード再発行や不正対応窓口といった救済(リカバリー)があるが、自己主権では鍵を失えば回復不能になりかねず、頼れる中央が存在しない。何か起きた時の責任の所在も曖昧で、制度が引き受けてきたリスクを個人に押し付ける構造になる。大阪大学が課題として挙げた「緊急時手順」「運用ルール」は、まさにこの信頼・責任の設計が未解決であることを示している。

⑤ 広がる時は「強制」によって、そして自己主権ではなくなる

最後は制度的強制力だ。デジタルIDが実際に広がった領域は、ほぼ規制主導である。EUのeIDAS 2.0/デジタルIDウォレットや、190カ国超の国家eIDがその例だ。自発的・市場主導の自己主権が停滞する一方、義務化は普及を一気に進める。だがここに逆説がある。義務化は自己主権の核である「自発性」を損ない、しかも大規模化のために中央集権的な信頼リスト等へ回帰しがちで、「広がった時にはもう純粋な自己主権ではない」のだ。

総じて、自己主権が標準にならないのは技術の未熟さではなく、人の実際の行動、データ経済の収益構造、信頼の在り処、制度の力学という非技術的要因の合成結果である。普及の鍵は、より速いブロックチェーンではなく、強い動機を持つニッチ(医療・救急・研究同意など)や制度を突破口に、自己責任の重荷を制度的に肩代わりする「運用・ガバナンスの設計」にある。大阪大学が医療という高ステークス領域を選んだことは、その意味で理にかなっている。

【事業開発に関するインサイト】

  1. 「あったらいいね」と「手間やお金を払う」の間には深い溝がある。アンケートやPoCでの高評価は“表明選好”にすぎず、実際に手間・コスト・自己責任を引き受けるかという“顕示選好”とは別物だ。新規事業は、ユーザーが「実際に何を犠牲にして選んだか」で検証すべきで、PoCの好反応を市場性と取り違えてはならない。理念的に正しいことと、人が日々それを選ぶことは、まったく別の問題である。
  2. 「中抜きを排除する」価値提案は、推進主体が不在になりやすい。ディスラプトの対象が、本来その普及を担えるだけの資金と流通網を持つ既存プレイヤーと一致するとき、誰もその仕組みに金を出さない。新規事業では着手前に「この仕組みで誰が儲かり、誰が普及のコストを負担するのか」を設計する必要がある。理念だけでは、それを広める経済的エンジンは生まれない。
  3. ネットワーク効果や二面市場を要する事業は、万人向けの自発的普及ではなく、強い動機を持つニッチか制度的強制力を起点にすべきである。コールドスタート問題は「全員にとって少し便利」では突破できない。高ステークスで切実な領域(医療・救急・コンプライアンス等)に的を絞り、その限定文脈の中だけで価値が完結する設計から始めることが、結果的に横展開への最短経路になる。

【引用:出典】

  • 大阪大学 ResOU「NFTを活用した『自己主権型』データ流通基盤を開発」(2026年3月18日)/基盤論文はIEEE ICCE 2026予稿集に掲載、NICT委託研究(No.23801)
  • Help Net Security「Self-sovereign identity could transform fraud prevention, but…」(中抜き排除による収益不在、自己責任・リカバリー問題、2025年)
  • arXiv「SoK: Self-Sovereign Digital Identities」(コールドスタート問題、発行体の利害不一致、義務化と自発性の矛盾)
  • ScienceDirect「Self-sovereign identity in the public sector」/「SSI adoption: Antecedents and potential outcomes」(組織的抵抗、経済的非整合)
  • D. Solove「The Myth of the Privacy Paradox」/Lexology・Compass Lexecon「The privacy paradox」(表明選好と行動の乖離)
  • Carrascal et al.(閲覧履歴≒7ユーロ等、個人データの低い主観的価値)/Beresford et al.「unwillingness to pay for privacy」
  • Hopae「Digital identity adoption」(DID方式130種以上の乱立、eIDAS 2.0等の規制主導、2029年に15億人がデジタルID利用見込み)
  • Deloitte Insights「Consumer data privacy paradox」(支払意思の表明と実行動の差)
監修

石田陽之(いしだあきひさ)

Cabinet株式会社 代表取締役

2017年より、一貫してトークンやNFTの活用、ブロックチェーンゲームの企画・開発、NFTを活用した事業開発に従事。大手エンタメ上場企業を始め、80件以上のブロックチェーンプロダクトに対し事業責任者や設計、PM、アドバイザー等、様々な立場でブロックチェーン関連の事業開発に関わってきた。2021年よりCabinet株式会社を創業。

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