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2026年08月17日

「金融OS」ではなく「権限のカーネル」── セルフカストディ・ウォレット競争の本当の争点

「金融OS」ではなく「権限のカーネル」── セルフカストディ・ウォレット競争の本当の争点

転換点は「多機能化」ではなく「口座の再定義」だった

ウォレットの競争を機能の足し算として眺めると、スワップが入った、カードが付いた、対応チェーンが増えた、という話に見える。しかし技術的な転換点は別のところにあった。

2023年に実用化されたERC-4337(Account Abstraction)は、ウォレットを秘密鍵と一対一で結びつく存在から解放し、任意のロジックで署名検証と実行を定義できるスマートコントラクト口座へと変えた。これにより、パスキーによる生体認証、ソーシャルリカバリー、第三者によるガス代の肩代わり、用途と上限を限定したセッションキーといった機能が、口座そのものの性質として実装可能になった。

さらに2025年5月7日のPectraアップグレードで有効化されたEIP-7702が、この流れを既存ユーザーへ開いた。新しいトランザクション種別0x04が導入され、既存の外部所有アカウント(EOA)が、アドレスを変えないままスマートコントラクトの挙動を「委任」できるようになったのである。委任先を指定する署名の集合はauthorization_listと呼ばれる。名称そのものが示すとおり、ここで扱われているのは残高でも鍵でもなく、権限である。

つまりウォレットは、資産をしまう金庫から、取引の可否を判定するポリシー実行装置になった。多機能化はその結果であって原因ではない。

世界の競争軸は、チェーン数から「承認体験」へ

主要プレイヤーの動きは、この見立てと整合している。

MetaMaskは月間アクティブ利用者数3,000万人規模とされる最大級のセルフカストディ・ウォレットだが、近年の投入機能はカード決済、独自ステーブルコイン、ETH以外のトークンによるガス支払いなど、いずれも「使う瞬間の摩擦」を削る方向に集中している。Bitget Walletは複数ネットワークで手数料を任意トークンで支払えるガス抽象化を前面に出し、Phantomはソラナ発の分かりやすい操作体験を武器に対応チェーンを広げた。Trust Walletは対応チェーン数と累計利用者規模で存在感を保つ。

一方、Safeは個人向けではなく、マルチシグと細粒度の権限管理によってDAOや企業の資金管理で確固たる地位を築いている。LedgerやTrezorといったハードウェアウォレットは、鍵をオンライン環境から物理的に隔離するという一点で価値を提供し続けている。

この並びを見ると、市場が単一の勝者に収束していないことが分かる。むしろ役割分化が起きている。共通しているのは、競争の焦点が「何チェーンに対応しているか」から「誰がどの条件で承認するか」の設計へ移っている点だ。ハードウェアウォレットは物理的な承認、Safeは組織的な承認、スマート口座系は条件付きの自動承認を提供している。いずれも権限の表現方法をめぐる競争である。

日本の3社は、同じ境界の別々の面を取りに行っている

日本市場では、この構図がより明瞭に現れている。国内の主要な非預託型ウォレットは、いずれも権限の異なる側面を押さえに動いている。

マイナウォレットは、マイナンバーカードの公的個人認証サービス(JPKI)で本人確認を行いながら、秘密鍵はユーザーが保持する非預託型を採る。操作はパスキーで行い、ガス代は事業者が肩代わりする。この設計は同社が2023年9月にイーサリアム財団のERC-4337関連助成に採択された研究成果を基礎としており、2026年7月に一般提供が始まった。対応チェーンはEVM互換の6種である。三井住友カードとは2026年1月に福岡市で、4月25日には北九州メッセでJPYCのタッチ決済実証を実施し、2月にはデジタルガレージ、JCB、りそなホールディングスとQRコード決済の実証も行った。押さえているのは「誰であるか」の面である。

JPYC Gatewayは、アステリアが2026年4月1日に提供を開始した法人向けの入出金管理サービスだ。多段階承認ワークフロー、監査ログ、ガスレス送金、ERPや会計システムとのノーコード連携を備え、送金手数料は1件8円の固定である。同社は6月16日、標準搭載ウォレットに加え、接続確認を経た「公認ウォレット」の認定枠組みも公表した。狙いは明快で、一般的なウォレットでは担当者一人の判断で巨額送金が可能になってしまい内部統制上使えない、という現実の課題を埋めにいっている。押さえているのは「誰が承認するか」の面である。

HashPort Walletは、大阪・関西万博のデジタルウォレットを承継した非預託型ウォレットで、累計ダウンロードは115万件を超えたとされる。2026年8月6日にはKDDI、ローソンとともにローソン高輪ゲートウェイシティ店で、POSレジ連動によるJPYC決済の技術実証を実施した。店舗側はウォレットを開設・管理することなく、通常のPOSを通じて受け付けられる構成である。押さえているのは「どこで使えるか」の面だが、より正確には、加盟店側の受領権限を店舗に持たせずに済ませる設計である。

三者は競合しているようでいて、本人確認・組織内承認・加盟店受領という、権限境界の異なる三面を分担している。世界の競争が体験と対応範囲を軸に進むのに対し、日本の競争は誰が証明し誰が承認するかを軸に進んでいる。

規制とAIエージェントが、同じ場所を指している

この見立てを補強する材料が二つある。

第一に規制である。FATFのトラベルルールは、2025年6月時点で調査対象117法域のうち85法域が立法済みとされる。EUでは資金移転規則が2024年12月から適用され、2027年7月10日にはマネーロンダリング防止規則(AMLR)が適用開始となる。同規則は暗号資産サービス提供者に対し、自己保管ウォレットとの移転についてリスク低減措置を求め、匿名口座の維持を禁じる。自己保管そのものを禁じるものではないが、規制は明らかに「事業者と自己保管ウォレットの接点」に集中している。この接点とは、まさに本人性と権限が確認される場所である。

第二にAIエージェントである。HashPortは2026年9月に、ウォレットをAIエージェントと接続するMCP(Model Context Protocol)対応の第1弾をリリースする計画を示している。注目すべきは、その設計方針として、資産の移動時には必ず利用者本人による承認を要し、秘密鍵は本人が保持する非預託方式を維持すると明示している点だ。エージェントに何をどこまで委ねるかを決める仕組みが必要になり、その仕組みは口座の権限設計そのものになる。

規制もAIも、ウォレットの同じ層を要求している。だからこの層を「金融OS」と呼ぶのは、やや不正確である。OSはアプリを動かす基盤を指すが、ここで争われているのはむしろカーネルの権限管理機構に近い。誰の資産を、誰の承認で、どの条件下で動かしてよいか。その判定を担う場所が、金融の競争優位の所在地になりつつある。

政策の側も同じ方向を向いている。政府は2026年7月21日に閣議決定した「経済財政運営と改革の基本方針2026」で、資産運用立国の施策の一つとして「オンチェーン金融の推進」を初めて明記した。脚注では、トークン化預金やステーブルコインによる資金決済が、商流・物流等のデータ管理とプログラムによって連動・一体化される金融、と定義されている。決済とデータが連動するということは、その連動を許可する主体と条件が必要になるということでもある。

事業開発インサイト

  1. ウォレットの評価軸を「対応チェーン数」から「権限ポリシーの表現力」へ切り替える。 自社サービスに組み込むウォレットや、社内で採用する資産管理基盤を選定する際、対応チェーン数や手数料の比較は入口にすぎない。実質的な差は、承認者を複数段階に分けられるか、金額や送付先ごとに条件を設定できるか、権限を委譲したうえで期限や上限で自動失効させられるか、そして操作の全履歴が監査可能な形で残るかにある。この四点を評価表の主軸に据えるだけで、選定の質は大きく変わる。国内法人向けサービスが多段階承認と監査ログを前面に出しているのは、この評価軸が既に実務で顕在化していることの証左である。
  2. 本人確認済み顧客IDとオンチェーン権限の接続設計を、トークン発行の検討より先に固める。 金融機関や事業会社は、既にKYC済みの顧客基盤を保有している。オンチェーンで何かを始める際、その資産をどう発行するかから議論が始まりがちだが、実務上のボトルネックは、自社の顧客IDをオンチェーンの権限にどう写像するかにある。公的個人認証を非預託型ウォレットの本人確認に組み込む国内事例が既に一般提供段階へ進んでいることは、この接続が技術的には解ける問題であることを示している。逆に、この設計を欠いたまま発行だけを進めると、顧客との関係を保持する主体はウォレット事業者側になり、自社は原資産の提供者に留まる。
  3. AIエージェント時代の「人間の承認が必須な取引」の線引きを、今のうちに社内合意しておく。 ウォレットとAIエージェントを接続する実装が2026年内に登場する見通しにある以上、残高照会や情報取得は自動で、資産移動は本人承認を要する、といった線引きは近い将来の実務課題になる。ここで決めるべきは技術ではなく方針である。金額の閾値はいくらか、社内取引と社外送金で扱いを変えるか、承認者不在時のエスカレーション経路をどう設計するか。これらは既存の稟議規程や決裁権限表の延長で議論できる論点であり、技術検討の完了を待つ必要がない。むしろ先に方針を固めておくことが、後の技術選定における明確な要件定義になる。

出典

監修

石田陽之(いしだあきひさ)

Cabinet株式会社 代表取締役

2017年より、一貫してトークンやNFTの活用、ブロックチェーンゲームの企画・開発、NFTを活用した事業開発に従事。大手エンタメ上場企業を始め、80件以上のブロックチェーンプロダクトに対し事業責任者や設計、PM、アドバイザー等、様々な立場でブロックチェーン関連の事業開発に関わってきた。2021年よりCabinet株式会社を創業。

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